名古屋市科學館位於市中心區一帶,距離榮、大須觀音等商圈都不遠,走路即可到達,這三個地方大概就可以花掉一天的時間。從名古屋車站搭地下鐵東山線過一站到伏見,散步5-8分鐘就抵達。這個科學館不只是針對學生族群,其實一般人都非常適合參觀。而且,說真的,在看過台北科教館、台中科博館、高雄科工館之後,再來看這間名古屋科學館,會發現到我們真的還是差人家一大截。
2017年8月23日 星期三
2017年8月19日 星期六
2017日本中部地方旅遊(1/8)
2017年寒假期間特別安排全家到日本中部地方旅遊,主要行程為名古屋、白川鄉合掌村、高山市、飛驒市、下呂溫泉,並再次到伊勢神宮。前一陣子許多臉書好友一直私訊問我的行程計畫安排,故特別在此跟各位分享(其實也已經拖了好久)。
第一天:高雄-台北(桃園)-中部國際機場,晚上10:30到名古屋市
第二天:名古屋市區:名古屋科學館、大須觀音(及附近商店街/動漫)、榮、OASIS 21
第三天:名古屋市到白川鄉合掌村,高山市
第四天:高山市,飛驒市,下呂溫泉
第五天:下呂溫泉,名古屋市區
第六天:常滑市,熱田神宮,名古屋市區
第七天:伊勢神宮,鈴鹿市,名古屋市區
第八天:名古屋-中部國際機場-台北(桃園)-高雄
後續會再針對一些重要景點及前往的方式做一整理。
2017日本中部地方旅遊(1/8)
2017日本中部地方旅遊-名古屋市科學館(2/8)
2017日本中部地方旅遊-名古屋大須觀音與台灣拉麵(3/8)
2017日本中部地方旅遊-名古屋市區-榮與OASIS 21(4/8)
2017日本中部地方旅遊-白川鄉合掌村(5/8)
2017日本中部地方旅遊-高山市(6/8)
2017日本中部地方旅遊-飛驒市「你的名字」場景朝聖(7/8)
2017日本中部地方旅遊-下呂溫泉(8/8)
第一天:高雄-台北(桃園)-中部國際機場,晚上10:30到名古屋市
第二天:名古屋市區:名古屋科學館、大須觀音(及附近商店街/動漫)、榮、OASIS 21
第三天:名古屋市到白川鄉合掌村,高山市
第四天:高山市,飛驒市,下呂溫泉
第五天:下呂溫泉,名古屋市區
第六天:常滑市,熱田神宮,名古屋市區
第七天:伊勢神宮,鈴鹿市,名古屋市區
第八天:名古屋-中部國際機場-台北(桃園)-高雄
後續會再針對一些重要景點及前往的方式做一整理。
2017日本中部地方旅遊-名古屋市科學館(2/8)
2017日本中部地方旅遊-名古屋大須觀音與台灣拉麵(3/8)
2017日本中部地方旅遊-名古屋市區-榮與OASIS 21(4/8)
2017日本中部地方旅遊-白川鄉合掌村(5/8)
2017日本中部地方旅遊-高山市(6/8)
2017日本中部地方旅遊-飛驒市「你的名字」場景朝聖(7/8)
2017日本中部地方旅遊-下呂溫泉(8/8)
2017年8月10日 星期四
【ブラジル】日本統治下の台湾を生きた人々
來自於巴西的聖保羅新聞(日文)的一篇文章,提到有關於高雄228事件。文中兩人戰前在台灣出生,戰後移居巴西,與當地日裔社會密切來往。
文章內容摘要:
85歲的陳文財1932年於台灣高雄市出生,親眼經歷二二八事件,他看到朋友的哥哥從人力車上被拖下來然後槍殺;還有愛河裡滿是浮屍。
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文章來源:
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170804-00010000-saopaulo-s_ame&p=1
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170804-00010000-saopaulo-s_ame&p=2
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【ブラジル】日本統治下の台湾を生きた人々
25年間台湾に帰れなかった陳文財さん 「二・二八事件」殺害現場も目の当たりに
「今、ここ(ブラジル)だから話せることがある」と陳文財さん(85、台湾)は第二次世界大戦前後の台湾を振り返った。台湾人として同時代を過ごし、渡伯した2人を取材する機会を得た。20世紀史上最も長い38年にわたる台湾の戒厳令下で封じられてきた貴重な証言が得られ、日本と関わりの深い台湾の生々しい歴史像が浮かび上がってきた。
「あの頃のことを『犬去りて、豚来たる(狗去猪来)』とよく言う」と陳さんは、終戦前後の台湾の政変を指す俗語を紹介した。「日本人はうるさいが番犬として役に立った。しかし、国民党の人間は貪り食うばかりで何にも役に立たない」と言われるそうだ。日本統治の強権ぶりや、蒋介石率いる国民党の汚職への失望を表しているとも解釈できる。
陳さんは1932年に台湾南部の高雄市に生まれた。祖父の代に中国の福建省から台湾に渡ってきた本省人だ。当時の台湾は日本統治下の、(陳さんの言葉を借りれば)「格子のない台湾」だった。戦後、国民党による戒厳令下に治安が悪化し、多くの建物の窓に鉄格子が取り付けられ、それが現在でも台湾を特徴付ける景観の一つとなっている。一方、戦前の日本統治下について陳さんは、「島全体が一つの鉄格子の中みたいなものだったから」と語る。
日本人の子供とは分けられ、台湾人の生徒のみの公学校に通い、読み書きも日本語の授業を受けて育った。
37年の盧溝橋事件に端を発した日中戦争(支那事変)を受けて、日本の台湾総督府は「皇民化」運動を実施。陳さんも「江川文雄」への改名を促された。
大戦末期、高雄市にも米軍の空襲があった。「空襲警報が鳴って、学校のみんなで走って防空壕に入っていったのを覚えている」そうだ。
この時、陳さんの兄の一人は、多数の戦死者を出した「レイテ島の戦い」に山下奉文大将配下の日本兵として参加し、帰らぬ人となっている。
45年に日本が「ポツダム宣言」を受諾し、台湾の領有権を破棄すると、中華民国の蒋介石率いる国民党が台湾に進駐した。なお、中国本土では、国共内戦が46年6月から再度本格化し、49年10月に中華人民共和国が建国した。
終戦以降に大陸から移住した外省人の弾圧が引き金となり、47年に「二・二八事件」が起こった。抗議をした本省人のデモ隊や一般市民、知識階級などが多数処刑殺害され、その数は現在でも諸説ある。
陳さんは、「汽車から降りた市民が銃殺されたり、街(高雄市)の中心に集められ、処刑現場を見せられた」ほか、「友人の兄が人力車から引きずり降ろされて銃殺されたことや、(同市の)愛河に人の死体がいっぱい浮かんでいた」のを目にしたという。
「台湾独立運動に参加した」ことで「国民党に睨まれた」陳さんは、その後日本で建築を学ぶなどし、62年に渡伯。ブラジルでは大学で再度建築を学び、学位を取得。建築関係の仕事で生計を立てた。
渡伯後も、国民党体制下の厳戒令が87年に解除されるまでの25年間、台湾に帰ることができず、ブラジルで台湾人渡伯者に出会っても「外省人の中に国民党のスパイが混ざっていて、狙われてしまうかもしれない」ため、なかなか気を許せない日々が続いた。
そうした状況や、かつての台湾時代への郷愁もあってか、陳さんは今でもブラジル日本移民とも交流が多く、親交の深い人たちから「(過去を)言いなさい、言いなさいと言われたけど、言ったら殺されるかもしれなかった」と語る。
現在は、毎年サンパウロ市リベルダーデ区のブラジル日本文化福祉協会で行われる「国際民族舞踊祭」で台湾舞踊チームを牽引し、同区の岩手県人会館では元気にカラオケを歌う。「生い立ちがあってか、やっぱり歌うのは日本の歌だね」と、どこかあどけなく笑った。
日本統治下の台湾を生きた人々 女手一つで子供育てた母を偲び
1932年に生まれ、幼弱だった台湾人女性のAさんは、台湾の日本統治末期を新竹県六家庄で過ごした。父は家族を養うために懸命に川で魚を釣ったが、肺を病み、家族を残して他界した。Aさんの母は女手一つで、子供4人を育てあげた。
「母は苦労したと思います。父の葬式でお坊さんがお経を読んだのを、弟が空き缶を叩いて真似事をしたのを覚えています。母はその時、どれだけ心を痛めていたでしょうか」と語る。
公学校では「日本人と台湾人の教師が働いていて、教育勅語を読み、黙とうを捧げ」、「学校で教わった歌はほとんど軍歌、あるいは隣組の歌だった」という。毎朝の朝会では「戦勝の報告」があり、Aさんはそれを聞きながら「貧血を起こし、気を失い、医務室に運ばれた」こともあったそうだ。
戦時中、約20万人の台湾人が日本兵として徴兵された(Wikipedia掲載の日本厚生労働省援護局資料、1990年発表分による)が、働き手の不在や疎開などで、新竹県でも「物資が不足し、食糧も少なく」、「配給された1カップの米を家族5人で分けた」り、「遠方まで闇米を買いに行く」などして、なんとか食いつないだ。
Aさんは、「終戦が近くなった45年は、毎日のように米軍の戦闘機による空襲があった」という。「朝の8時頃にサイレンが鳴ると、母は私たち兄弟姉妹4人に着替えの服を背負わせ、一足先に裏山の防空壕に避難させた。母は後から芋や豆の葉が入った水っぽいお粥を担いできたが、正午になるまで絶対に食べさせなかった。早く食べると、すぐお腹が空いてしまうから」と当時の生活の過酷さを振り返った。
終戦を告げる玉音放送は台湾でも流れたが、この日はAさん含め多くの台湾の人々にとって、唐突に「日本人」から「中国人」に変わることを意味した。
「何で日本はあんなに小さい国なのに戦争をしてしまったのでしょうか。世界中の人が楽園のように暮らせればよかった」と語るAさんはその後、台北で小学校の教師を務めた後、売店を開き、練乳かき氷を販売するなどして生計を立てた。
Aさんは「今思えば大胆でした」と語るが、70年に夫婦で渡伯。当初はスカーフを美容院の前に置かせてもらって販売していたが、売り物や私物の時計など全部騙し盗られてしまったこともあったそうだ。
鶏を食肉に加工する商売に転向したところ、誠実な仕事ぶりを見た客の間で「日本人は正直だな」と評判になり、隣の地区から買いに来る客も現れ、「1週間にトラック1台分ほど売れ」るようになり、苦労が報われた。
その後、食品販売業の傍ら、日本語で書籍を読み、執筆活動も続けてきた。
Aさんは「ここ(ブラジル)の日本人は良い人ばかりです。もっと日本人が来たらいいのに」と話し、優しく微笑んだ。
感謝資料提供: Lo Shih-Ho
文章內容摘要:
85歲的陳文財1932年於台灣高雄市出生,親眼經歷二二八事件,他看到朋友的哥哥從人力車上被拖下來然後槍殺;還有愛河裡滿是浮屍。
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文章來源:
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170804-00010000-saopaulo-s_ame&p=1
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170804-00010000-saopaulo-s_ame&p=2
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【ブラジル】日本統治下の台湾を生きた人々
25年間台湾に帰れなかった陳文財さん 「二・二八事件」殺害現場も目の当たりに
「今、ここ(ブラジル)だから話せることがある」と陳文財さん(85、台湾)は第二次世界大戦前後の台湾を振り返った。台湾人として同時代を過ごし、渡伯した2人を取材する機会を得た。20世紀史上最も長い38年にわたる台湾の戒厳令下で封じられてきた貴重な証言が得られ、日本と関わりの深い台湾の生々しい歴史像が浮かび上がってきた。
「あの頃のことを『犬去りて、豚来たる(狗去猪来)』とよく言う」と陳さんは、終戦前後の台湾の政変を指す俗語を紹介した。「日本人はうるさいが番犬として役に立った。しかし、国民党の人間は貪り食うばかりで何にも役に立たない」と言われるそうだ。日本統治の強権ぶりや、蒋介石率いる国民党の汚職への失望を表しているとも解釈できる。
陳さんは1932年に台湾南部の高雄市に生まれた。祖父の代に中国の福建省から台湾に渡ってきた本省人だ。当時の台湾は日本統治下の、(陳さんの言葉を借りれば)「格子のない台湾」だった。戦後、国民党による戒厳令下に治安が悪化し、多くの建物の窓に鉄格子が取り付けられ、それが現在でも台湾を特徴付ける景観の一つとなっている。一方、戦前の日本統治下について陳さんは、「島全体が一つの鉄格子の中みたいなものだったから」と語る。
日本人の子供とは分けられ、台湾人の生徒のみの公学校に通い、読み書きも日本語の授業を受けて育った。
37年の盧溝橋事件に端を発した日中戦争(支那事変)を受けて、日本の台湾総督府は「皇民化」運動を実施。陳さんも「江川文雄」への改名を促された。
大戦末期、高雄市にも米軍の空襲があった。「空襲警報が鳴って、学校のみんなで走って防空壕に入っていったのを覚えている」そうだ。
この時、陳さんの兄の一人は、多数の戦死者を出した「レイテ島の戦い」に山下奉文大将配下の日本兵として参加し、帰らぬ人となっている。
45年に日本が「ポツダム宣言」を受諾し、台湾の領有権を破棄すると、中華民国の蒋介石率いる国民党が台湾に進駐した。なお、中国本土では、国共内戦が46年6月から再度本格化し、49年10月に中華人民共和国が建国した。
終戦以降に大陸から移住した外省人の弾圧が引き金となり、47年に「二・二八事件」が起こった。抗議をした本省人のデモ隊や一般市民、知識階級などが多数処刑殺害され、その数は現在でも諸説ある。
陳さんは、「汽車から降りた市民が銃殺されたり、街(高雄市)の中心に集められ、処刑現場を見せられた」ほか、「友人の兄が人力車から引きずり降ろされて銃殺されたことや、(同市の)愛河に人の死体がいっぱい浮かんでいた」のを目にしたという。
「台湾独立運動に参加した」ことで「国民党に睨まれた」陳さんは、その後日本で建築を学ぶなどし、62年に渡伯。ブラジルでは大学で再度建築を学び、学位を取得。建築関係の仕事で生計を立てた。
渡伯後も、国民党体制下の厳戒令が87年に解除されるまでの25年間、台湾に帰ることができず、ブラジルで台湾人渡伯者に出会っても「外省人の中に国民党のスパイが混ざっていて、狙われてしまうかもしれない」ため、なかなか気を許せない日々が続いた。
そうした状況や、かつての台湾時代への郷愁もあってか、陳さんは今でもブラジル日本移民とも交流が多く、親交の深い人たちから「(過去を)言いなさい、言いなさいと言われたけど、言ったら殺されるかもしれなかった」と語る。
現在は、毎年サンパウロ市リベルダーデ区のブラジル日本文化福祉協会で行われる「国際民族舞踊祭」で台湾舞踊チームを牽引し、同区の岩手県人会館では元気にカラオケを歌う。「生い立ちがあってか、やっぱり歌うのは日本の歌だね」と、どこかあどけなく笑った。
日本統治下の台湾を生きた人々 女手一つで子供育てた母を偲び
1932年に生まれ、幼弱だった台湾人女性のAさんは、台湾の日本統治末期を新竹県六家庄で過ごした。父は家族を養うために懸命に川で魚を釣ったが、肺を病み、家族を残して他界した。Aさんの母は女手一つで、子供4人を育てあげた。
「母は苦労したと思います。父の葬式でお坊さんがお経を読んだのを、弟が空き缶を叩いて真似事をしたのを覚えています。母はその時、どれだけ心を痛めていたでしょうか」と語る。
公学校では「日本人と台湾人の教師が働いていて、教育勅語を読み、黙とうを捧げ」、「学校で教わった歌はほとんど軍歌、あるいは隣組の歌だった」という。毎朝の朝会では「戦勝の報告」があり、Aさんはそれを聞きながら「貧血を起こし、気を失い、医務室に運ばれた」こともあったそうだ。
戦時中、約20万人の台湾人が日本兵として徴兵された(Wikipedia掲載の日本厚生労働省援護局資料、1990年発表分による)が、働き手の不在や疎開などで、新竹県でも「物資が不足し、食糧も少なく」、「配給された1カップの米を家族5人で分けた」り、「遠方まで闇米を買いに行く」などして、なんとか食いつないだ。
Aさんは、「終戦が近くなった45年は、毎日のように米軍の戦闘機による空襲があった」という。「朝の8時頃にサイレンが鳴ると、母は私たち兄弟姉妹4人に着替えの服を背負わせ、一足先に裏山の防空壕に避難させた。母は後から芋や豆の葉が入った水っぽいお粥を担いできたが、正午になるまで絶対に食べさせなかった。早く食べると、すぐお腹が空いてしまうから」と当時の生活の過酷さを振り返った。
終戦を告げる玉音放送は台湾でも流れたが、この日はAさん含め多くの台湾の人々にとって、唐突に「日本人」から「中国人」に変わることを意味した。
「何で日本はあんなに小さい国なのに戦争をしてしまったのでしょうか。世界中の人が楽園のように暮らせればよかった」と語るAさんはその後、台北で小学校の教師を務めた後、売店を開き、練乳かき氷を販売するなどして生計を立てた。
Aさんは「今思えば大胆でした」と語るが、70年に夫婦で渡伯。当初はスカーフを美容院の前に置かせてもらって販売していたが、売り物や私物の時計など全部騙し盗られてしまったこともあったそうだ。
鶏を食肉に加工する商売に転向したところ、誠実な仕事ぶりを見た客の間で「日本人は正直だな」と評判になり、隣の地区から買いに来る客も現れ、「1週間にトラック1台分ほど売れ」るようになり、苦労が報われた。
その後、食品販売業の傍ら、日本語で書籍を読み、執筆活動も続けてきた。
Aさんは「ここ(ブラジル)の日本人は良い人ばかりです。もっと日本人が来たらいいのに」と話し、優しく微笑んだ。
感謝資料提供: Lo Shih-Ho
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